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峰岡町一丁目の由来について    <この資料は町内在住のI氏作成の資料を掲載しています> 

 

<帷子から峰岡町へ>

 「峰岡町」は昭和二年横浜市への編入の時、保土ヶ谷町大字帷子から帷子町となり、更に同年十月帷子町の字峯坂・峯ノ下・栗林などの区域から新設された。

 町名は字名の峯とこの地の開拓者・岡野欣之助の姓に因んで「峯」と「岡」を組み合わせて名付けられた。

 地形地名に使われる峯は、周囲より高い地形に与えられる嶺・岡・丘と同類である。

 明治十五年の参謀本部測量図に依ると、当地丘陵部は雑木林と畑(栗林と云う字名も見える)が示され、峯坂を登ると尾根伝えに羽沢から小机方面への道と峯ノ下を西へ八王子道が延びてる。

 集落は峯ノ下地区(現・二丁目「鮨賢」「元・小泉動物病院」周辺)に集中していた。

 昭和に入り上水道が普及すると、高台部の宅地造成が行われ現在の峰岡二・三丁目辺りには分譲住宅・企業社宅などが建てられた。

 昭和十五年に横浜市の大規模再編成に併せて保土ヶ谷方面の町堺町名字名変更改称並地番更生により「峰岡町一丁目」が設立された。

 なお、「峯」から「峰」への変更は定かではないが昭和五年ごろから公文書に「峰」が使われている。

 

<町の変遷>

 江戸時代  後期・幕末   …武蔵野国橘樹郡帷子町

 明治 4年 廃藩置県    …神奈川県橘樹帷子町

 明治22年 町村改革    …神奈川県保土ヶ谷町大字帷子

 昭和 2年 横浜市へ編入  …横浜市保土ヶ谷町大字帷子

 昭和 2年 区制施行    …横浜市保土ヶ谷区峯岡町

 昭和15年 町堺町名変更改称…峰岡町一丁目設立

 昭和24年 町内会設立

 昭和63年 集会所建直し  …老朽化により現在の集会所を建設

 現在に至る

 

<峰岡町一丁目界隈>

 明治後期から大正中期にかけて現・峯小学校の場所に農事試験場が開設されたり、崖下にポートワインで有名であった皇国ブドウ酒の醸造所があった。

 皇国ブドウ酒の醸造所の後は戦後星川にあった日本精糖のグランド(野球場)になったが、現在造成され宅地化され、マンション「ラムセス横浜・星川」が建設され、崖の周辺の景観は大幅に変わった。

 国道16号と峯小学校の間にある道路(商店街であった)が、昔の八王子道で往時は絹地を積んだ馬車が頻繁に往来したであろう。今は昔の面影を残していない…

 

<相鉄・星川駅>

 皆さんが通勤等に最寄り駅として利用した駅で、最近快速停車駅に昇格した。

 本駅は、昭和二年(1927)神中鉄道開通時は「北保土ヶ谷」と称した。

 国鉄「程ケ谷」駅(現JR保土ケ谷)に対応させた配慮であったのか。

 それが昭和五年「星川」駅に改称された。そのため当時別にあった「星川」駅を「上星川」に変更し、「星川」が二駅移動した格好になった。

 当駅には、駅前商店街がないのは珍しいがこれには訳がある。

 北口側は、戦前富士紡績の大工場で戦後跡地が保土ケ谷区役所、警察署、消防署、郵便局などの官庁街となり、南口は昭和六十年まで古河電機の工場があり現在は駅と直結した古河SFビルと変わったことによる。

 20XX年の完成を目指し、高架化(踏切立体交差)が行われようとしており駅舎も様変わりすることでう。

 蛇足であるが、駅から約三百米和田町寄りに横浜市全体の面積重心点「ヘソ広場」がある。

 

<保土ケ谷の地名由来>

 「保土ケ谷」地名の由来については諸説ある。

 代表的なものには、

 (1)郡郷制における古代幡屋(はたのや)郷の転訛

 (2)頼朝の家臣榛谷(はんがや)氏の地領榛谷御厨の転訛

 (3)「ホト・ホト」谷戸の山に囲まれた凹地、女性の陰部(秀処)の例えで自然地名として各所にあるなどが考えられる。

 保土ケ谷について、前述(3)を支持するすると共に、ホト状の谷戸の場所として元町南側の丘陵部(現・狩場インターになっている)と推定する。…明治三十九年版地図参照。 

 元町橋~樹源寺辺りの集落の人々は、毎日正面にこの大谷戸を眺めながら暮らしていたと想像する。

 東京都日野市に、地形的に類似した地名の場所がある。

 玉川支流「程久保川」と云う地名が川沿いに存在する。

 

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